2011年2月4日金曜日

明日からアフリカに行きます。



明日から、3月4日まで南部アフリカに旅行に行ってきます。

今回は、ナミビア、ボツワナ、ジンバブエ、ザンビアへ!!
南アは今回はトランジットのみで、他の国に行くことにしました。

昨年ザンビアと3時間ジンバブエいただけだったので、本格的な南部アフリカ旅行になりそうです。

楽しみ8割悲しみ2割だなぁ。。という不思議な気持ちです。
もう当分行けないだろうし、もうケープタウンにさえ行くことは2,3年ない…。
そしてあの調査生活も、もうできないんだと思うと悲しい。なんか終わりを迎える旅で少し悲しい気分です。

でも全ての終わりじゃないし、わたしの大学・大学院生活の終止符というだけで、これからもっと先はある。
働いてからだって、行ける。絶対ケープには戻んなきゃな。

この旅行が終わるころはどうなってるんだろ…。楽しかったなぁ。学生生活6年間。
振り返る旅になりそうです。


今回はケープの友人や友人の実家、先輩の友人をつたっての旅。あと、ザンビアにいる協力隊の先輩にも。
またいろんな人に会える。楽しみーーー!!!
南アとはまた違う風景が見れるんだろうなぁ…。わくわくします。

もちろん、他国のタウンシップも行くつもりです。特にジンバブエではもう紹介してもらったし!
きっとまた違う一面が見れる。また視野も価値観も広がるだろうな。

気をつけて、思いっきり楽しんできます!!!

2011年2月3日木曜日

Nodoliのライフヒストリー


Nodoliとひ孫たち。

タウンシップは、都市空間の中でも縁辺に追いやられた地域として、都市の広大な下層地域の一隅に位置づけられてきた。
多くの出稼ぎ移民がタウンシップに集結し、人間の喜怒哀楽を演じる。
タウンシップには、多くの厳しい社会問題が折り重なる。仕事、住居、病気、HIV/AIDS、福祉、犯罪、人種差別の問題が積み重なる。
都市空間は、流浪しながら生き抜いてきた住民たちの軌跡がよく見える場所でもある。


マシプメレレの住民たちがどういった経緯で農村から抜け出し、ケープタウンという都市に出てきたのか。そしてどうしてこのマシプメレレというタウンシップに流れ着いたのか、ということを多くの人に調査でインタビューをしてきた。


最初に、南アの各都市を移動してきたNodoliのライフストーリーを紹介したい。
彼女と私が出会ったのは、私が毎日通っていたエチオピア人が経営するスパザショップ。
彼女はその時2人のひ孫を連れ大量の食材を買いに来ていた。その後私が彼女の家に食材を運ぶ手伝いをしてから、私が彼女の家へ通う日々が始まった。
彼女は会った当初から私に興味を持ち、いろいろ話を聞いてきた。私も彼女の人柄に信頼を寄せ、毎日通いいろんな話をした。いつも優しく、偏見も差別もなく接してくれるNodoli。彼女の心は大きく広い。本当に大好きな人。


彼女は1940年生まれの現在71歳。ヨハネスブルグのアレキサンダドラ・タウンシップで生まれ、両親の故郷である東ケープ州のマタティエレ(Matatiele)で育った。
学校に小学校8年間通い、その後1958年に18歳で結婚した。
夫は鉱山で働いており、子供は男女1人ずつ、2人育てた。

1973年、夫が47歳のとき(彼女は当時33歳)に心臓病で亡くなった。鉱山労働をしている中で、彼は心臓を悪くしたのである。
その後彼女は他の誰かと結婚しようとはせず、夫が亡くなった2ヶ月後にクワズルナタール州のダーバンへ働きに出る。
ダーバンでは家政婦として働いていたが、1974年にマタティエレに戻り1年間パン屋を経営していた。
76年には同じ東ケープ州のコークステイに移ったが、翌年の77年から93年までヨハネスブルグのケントンパーク(Kempton Park)で白人の家政婦やホテルの従業員として働いていた。
93年に父の兄弟の姉妹がケープタウンのマシプメレレに住んでいたため、彼女も移り住むことにした。当初はスクオッター・キャンプ(不法占拠区)に住んでいたが、1996年にはヨハネスブルグに移り住むという人から、マシプメレレの土地を当時R1500で購入した。
現在は、トタンで作った自分の家を保有し、そこに4つの掘立小屋を建てて他の人に貸出している。住人は、2つはジンバブエ人家族、もうひとつは友人のMatirdaに月R250で貸している。


現在のNodoli家族は、娘と孫4人、ひ孫2人の8人暮らしである。孫で2児の母親はあまり家に帰って来ず、面倒を主にNodoliが見ている。
孫は23歳と若い母親であり、彼女の母親ともよく口論をしている。娘や孫は時々家に帰ってくることもあるが、たいていは帰ってこず外へ出歩き酒を飲んで過ごしている。
Nodoliはいつも娘や孫、ひ孫までに日々手を焼いており、「困ったものだわ」と愚痴をこぼす。


Nodoli「ヨハネスブルグからここへ来たのは、ここに掘立小屋がたくさん建て始められたのを聞いたからよ、90年代にできたからね。子供がいたし、もっと静かで家が建てられるところへ移りたかったのよ。」

マシプメレレでは、近くのフィッシュフックやサイモンズタウンで67歳まで家政婦として働いた。彼女は家政婦として20年間、3都市間を移動し続けてきたのである。


Nodoli「ダーバンにはインド人がたくさんいたわね。そう、私もダーバンではインド人の家で働いていたわ。いい人だったわよ。
インド人の料理はおいしくてね、私も学んだわ。スパイシーな粉を入れると本当においしいのよね。ジョバーグでは、イギリス人とアフリカーナーの家で働いたわ。
ジョバーグやダーバンのときの友達とは全然会ってないわね。マタティエレの故郷の友人とも。連絡手段もないし、私も行くことはないわ。みんないい人たちだったけどね。

ケープタウンでは、フィッシュフック、コメキー、ノールトフックで67歳まで働いたわ。当時は日給R80だった。友人のMatirdaが辞めた時、私はまだ働いていたのよ。Matirdaは私より10歳も若いのに、辞めるのが早かったわね。年金がもらえ始める60歳でちょうど辞めたのよ。今の政府はいいわよ、年金を毎月くれるから。助かっているわ、働かなくて済むもの。」


彼女の移動の動機は、家計の大黒柱だった夫が亡くなったことによって、彼女が子供たちを育てていかなければならなくなったからであった。

アパルトヘイト政権のもとで、都市へと出稼ぎ労働者を送り出すように管理されたため、東ケープ州にはほとんど職がなかった。
現在でもその負の遺産は色濃く残っており、職業は都市部に集中したままである。しかし、都市へ移動してきてもなお職を見つけるのが難しいのが現状である。

彼女が移動先を選択する際に重要視したのは、移動先に親族がいるかどうかであった。移動先に親族がいることを親族から聞き、住所を教えてもらい訪ねにいく。
都会で生活していくために、必要な住居や職を確保するために、キーパーソンである自分自身の親族は貴重な存在である。彼女は移動する際は親族に依存するのみで、ダーバンやヨハネスブルクで形成したネットワークを維持することなく、流浪していくことになる。


Nodoli「人生はサークルよね、いろいろ移動するのよ。いろんな所へ行ってね…。」


人生は移動そのものであり、移動を繰り返したことによって、彼女の人生が形成された。タウンシップは出稼ぎ移民が都市で仕事を得るための巨大な吹き溜まりであり、還流する移民の「家郷」でもある。その意味でマシプメレレは、移動を辞めた彼女にとって家郷となり、終着駅となった。

2011年1月31日月曜日

Our life is like that

タウンシップに静寂な時間などないのではないだろうか。いつでもどこからか音楽が爆音で流れ、人びとの話声が聞こえる。犬や鶏の鳴き声、車のエンジンの音。家を建てているときの音、道端で肉を焼く音。すべての音がタウンシップの情景を作り出す。


タウンシップの朝は早く、騒がしい。5時には外から音楽が鳴り出し、人びとが起きて話をしている声がする。
音楽といっても早朝のさわやかな音楽ではなく、若者に人気があるブラックミュージックやクワイト、欧米のヒップホップが流れる。
その音楽は自然にわたしとって目覚まし時計代わりとなり、そしてそれらはまた新しい1日が始まる合図となった。
母親たちが手早く朝食の用意をし、子供たちの学校の制服にアイロンをかける。
朝食はたいてい彼らの主食であるミリミリと呼ばれるトウモロコシの粉に、お湯を多めに入れたポリッジである。それ自体には味がついていないので砂糖とミルクを好みに応じて入れて食べる。

早朝のポケラロードでは乗り合いタクシーのクラクションと乗務員が行き先を告げる
「フィッシュフーーック!フィッシュフーーーック!」
「サイモーーンズターーウン!サイモーーンズターーウン!」
という声が鳴り響き、住民が足早に仕事場へと向かう。

近くの中高級住宅街で家政婦や庭師、ショッピングモール、レストランでの従業員、邸宅やモールの警備員などの仕事をする人々が多く、彼らはこの乗り合いタクシーを使って毎日通う。
乗り合いタクシーは、基本はR6(R1=約13円)でマシプメレレからはどこにでも通えるようなルートを走っている。道路には14人定員以上の乗客を乗せたタクシーや歩いて仕事や学校に向かうタウンシップ住民で溢れ、住民たちは道端で友人と会うと昨日の出来事を話しながら歩いていく。そうして9時前にはタウンシップ内は落ち着いていくのである。

日中は、仕事に就いていない者たちが道路をうろついたり、洗濯や布団を干したりなどの家事する女性や、そして昼間から酒を飲んでいる人びともいる。住民は近くのモールやスパザショップ(日用雑貨店)に買い物に行ったり友人宅を訪ねたりするなどの他、特にやることはない。学校にまだ行っていない子供たちは道端で駆け回って遊んでいる。

天候によって人々の行動も左右される。晴れていて風が強くない日は、人々は道端で戯れ、世間話や噂話を友人とする。
「この前来た誰々はね…」「昨日火事があったみたいよ…」「昨日のドラマ見た?」などだ。通りかかった友人も会話に混ざりどんどんと輪が大きくなっていく。

日中はあまり出入りの少ないスパザショップ(食料・雑貨店)も、夕方になると人びとが夕飯の食糧・食材を買いに集まってくる。

スパザショップでは、タウンシップで生活するための一通りの道具が揃う。
ジャガイモ・トマトは3~5個でR1、オレンジなどの柑橘類1個やバナナ1房はR1で売っている。
その他にも米、食パン、スープの素、そして洗剤やクリームまでばら売りしている。
揃えている商品は店によって異なり、人びとは買うものによって店を変える。
住民たちが店の中に入ってきては、その日その時に最低限必要なものを小銭を出しては買っていく姿がある。友人Dは、毎日ポテト1つとトマト2つ、携帯電話のプリペイドカードであるエアタイム(Airtime)R5分を息子に買いに行かせていた。
その時必要なものを必要な分だけ買う。それが彼女たちの生活のリズムなのである。

スパザショップの外装。



17時頃になると仕事場から人々が帰ってくる。暗くなる前に家に帰り友人や家族と過ごすのがライフスタイルとして成り立っている。
夕方になるとまたも道路に人が戯れ始める。
道端に生肉や野菜、ブラーイや自家製の鶏の足・頭を煮たものを売り始める人が現れ、そして帰宅する人、夕飯を食べに友人宅へ向かう人、そして夕飯を買いに外へ出かける人、お酒を飲む人で溢れだす。

そして音楽は日の入りと同時にボリュームが上がり、人々の騒ぎ声も大きくなっていく。
友人宅や親戚宅を訪ね、ともに夕飯を食べる。
夜に何度も友人宅を訪ねるために、夕飯を多い時に3回食べることもある。
食事の時間帯に来た友人には、夕食を振舞い共に話すのが礼儀であり、相手に対しての好意を表す。
主食はトウモロコシの粉で作ったパップと呼ばれるものと、チキンのトマト煮や野菜に味付けをしたものを添えて食べることが多い。パップの他にもお米やパン、パスタも食べることもある。テレビを見ながら今日出会った出来事をお互いに共有する。


パップとお肉の夕食。


夜中には、シビーン(Shebeen)と呼ばれるタウンシップ内のバーで暴力・殺傷事件が頻繁に起こる。
シビーンとは南アのタウンシップにある酒場である。
壁はトタンでできていて、奥にカウンターがある。大きいスピーカーが天井にあり、音楽はブラックミュージックやクワイト、欧米のヒップホップが爆音で流れる。週末には老若男女問わず多くの住民が安い酒を求めてこの場に集う。


昼間のシビーン。

タウンシップには、職がなくまた人間関係が希薄な住民たちの多くが酒に溺れているため、シビーンではしばしば暴力事件が起こる。
そのためシビーンに近寄らない住民も多い。住民の中には酒は悪の源と考える人もおり、酒を一切飲まない人もいるのである。
酔っ払うと自分自身が制御できなくなり、男たちはレイプをする、そしてHIV/AIDSが蔓延していくのだと、タウンシップの女性たちは語った。

そうしたタウンシップの都市生活の実態を含めて人びとはこう表現する、「これが私たちの生活なのよ(Our life is like that)」と。


火事があった日。ケープタウンは風が強いので、掘立小屋は頻繁に火事にあってしまう。

ケープタウン


ケープタウンの観光名所のウォーターフロント。


喜望峰自然保護地域。



ケープタウンは、南アの国会が設置されている立法府であり、歴史的にも文化的にも重要な都市。

世界的な観光名所としても知られるケープタウンは、美しい山々や海に囲まれた貴重な動植物の宝庫であり、多くの人々を魅了している。

温暖な気候と雄大な自然に加え、この都市にはヨーロッパ、アフリカ、アジアなどの異国情緒溢れる文化が入り混じり、独特の雰囲気を醸し出している。

でも、観光目的でケープタウンに数日滞在しただけでは、都市貧困地域である「タウンシップ」の存在は見えにくい。
ケープタウンという都市を表面的に見ただけでは、都市の周縁にいる存在として生活している都市貧困層の存在を認識することは難しい。
いわゆる「アフリカのスラム」を想起させるタウンシップは、「まるでヨーロッパみたい」なケープタウンのイメージと容易には結びつけにくい存在である。

ケープタウンの重要な特徴のひとつは、人種・民族別人口構成。

南ア全体では、アフリカ人が約80%、白人が約9%、先住民と白人の混血やマレー系の人種を指すカラードが9%という割合であるが、ケープタウンでは、カラードが半数を占めている。

また南アのアフリカ人は9民族から構成されるが、ケープタウンの場合は約9割がコサ人(Xosa)。

彼らはケープタウンが位置する西ケープ州の隣にある東ケープ州出身の出稼ぎ移民である。
東ケープ州は、かつてアパルトヘイト期にトランスカイ、シスカイと呼ばれた、アフリカ人(コサ人)の独立居住地域として位置づけられていた。
しかし、独立居住地域と言っても事実上は白人経済に依存しており、隣州である西ケープ州ケープタウンに職を求めて出稼ぎに行かなければならない構図が作り出されていた。

タウンシップは、労働力の供給地であり、家族や親族が生き延びていくために働きに出た者たちが、様々な背景を抱えながら住み込んでいた地だったのである。

2011年1月18日火曜日

マシプメレレの人びと

わたしが出会った大切な人たち。彼らがいなければ2カ月も滞在できなかった。
人脈を広げ、毎日話を聞きまわり、笑ったり辛い思いを共感したりした日々。
わたしは彼らと一緒に過ごして話を聞いただけ。
そして論文という形で伝えるだけ。

まだ何も還元できていない。これからいろんな形でしていかなきゃ。
そしてまた彼らに会いに行く。早く早く会いたいな。


大好きな二人組。わたしはいつも二人のことを想う。


いつも優しく迎えてくれる、大好きなNodoli。現在71歳の彼女は、故郷とヨハネスブルグ、ケープタウンを渡る歩いてきた。彼女の人生を今度紹介していきたい。



話好きで、わたしを娘のように扱ってくれる、大好きなMatrida。彼女も、ヨハネスブルグ、ケープタウン、故郷の東ケープを流浪してきた。彼女の人生から多く学んだ。



ホームステイ先のママ、Xoliswa。彼女は毎日家政婦として働きにでる、力強い一家の大黒柱である。
このときは彼女の自宅にて、彼女の36歳の誕生日!


親友のNtosh。彼女の人脈のおかげでたくさん友達ができた。彼女は96年に故郷を出てマシプメレレに来、現在クリニックで働く。





リーヒェとクミレ。わたしが訪ねると走っておしりをたたいてくる、やんちゃな姉妹。


甘えん坊のノムヒェ。彼女はジンバブエ人の両親をもつ。彼女が話すショナ語はかわいすぎる。


ノムヒェのママ。ジンバブエから一昨年ケープタウンに来た。いつもノムヒェの世話に手を焼いている。写真は洗濯中のところ。


21歳のシンディ。マシプメレレに来た当初、右も左もわからなかったわたしを、ずっと案内してくれた。この前職を得て、毎日働いている。


美容師のマラウイ人、リサ。彼女は英語、コサ語、ズールー語の3ヶ国語を操る。
「わたしは天性の才能を持ったから、南アに出稼ぎにきたのよ!」と語る。美容室には確かに毎日人が溢れていた。


マシプメレレ内の雑貨店のエチオピア人オーナー。毎日遊びにいかせてもらった。土日の休みもなく、毎日店にたつ。


いつもコミュニティセンターにたむろうおじいちゃん。彼はここに来る前までヨハネスブルグの鉱山で働いていた。


修理屋&床屋のおっちゃん。本当に働き者。


ご近所さんのNolaとZonke


いつも明るいNola。彼女は1990年はじめに故郷を出てマシプメレレにきた。

調査地ケープタウン、マシプメレレ・タウンシップ

1月12日、記念すべきわたしの修士論文を提出しました!!パチパチ

合計103ページ。いやはや、苦労し続けましたが、悔いはありません。

たくさんの人に感謝しています。

調査地の住民のみんなや、ケープタウンの友達、教授や友達みんな、そして親にも。

少しでもわたしが2年間やってきたことを知ってもらえれば嬉しいです。


ろくにブログも書かずパソコンに向かっていたわたし…

4月からの就職を前にすべてブログに書こうと今決意しました。(頑張ります)

わたしと南ア、タウンシップのことすべて書きたいと思います。


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フィッシュフックの駅


フィッシュフックの丘に立ち並ぶ家々


マシプメレレ(Masiphumelele)タウンシップは、ケープタウンの中でも比較的新しく作られたタウンシップであり、住民の多くは東ケープ州出身のコサ人の出稼ぎ移民。

マシプメレレはケープタウン市街地より南部の郊外に位置する。ケープタウン市街からミューゼンバーグまで向かい、海岸沿いの道を走り、喜望峰やケープ・ポイントを含み150種類以上の植物類・鳥類・カキや海藻が生息する喜望峰自然保護地域に向かっていく。

その途中に白浜のビーチをもつフィッシュフック(Fish Hoek)という小さい街がある。

住宅は丘に沿って立ち並び、東側には広大なフォルス湾の眺望が開ける。

マシプメレレに近付くとアフリカ人の男たちが道端にたむろし、14人の定員を超えた乗客を乗せた乗り合いタクシーが走るのが見えてくる。


わたしは2カ月という短期間マシプメレレで調査をしていたが、タウンシップという場所そのものは「治安が悪い場所」と言われている。

白人系南ア人の友人やケープタウン中心部にあるケープタウン大学で知り合った外国人にタウンシップに住んで研究をしていると言うと、あんな危険で物騒な場所に女の子一人で本当に大丈夫なのか、と尋ねられることが頻繁にある。

けっして南ア人でさえ立ち寄らないタウンシップという場所も、入って日々を過ごしてみると普段の人々の生活が待っているだけだ。

しかし決して安全ではないことは強調しなければならない。
現地の住民でさえ常に貴重品は持ち歩かず、ポケットに入れるのはわずかな小銭だけである。暗くなり始めたらギャングが出入りしている場所の近くにはけっして近づかず、外には一人では出歩かないことが基本である。



マシプメレレ内の写真屋さん&バーバー


マシプメレレ内のクリニック





メインロードのポケラ・ロード



マシプメレレは1991年に半合法的居住区として建てられた。

1980年代に400~500人が住み始め、当時は「サイト5」と呼ばれていた。大多数の住民は東ケープ州出身のコサ人であり、マシプメレレとはコサ語で「一緒に成功しよう(let us succeed together)」という意味である。

無秩序な自生的発展をしたために、当初は水道や電気といったインフラ整備、トイレや排水などの衛生環境もない悲惨な状態で自然に居住区が膨張していった。
アパルトヘイト政策が緩和された1990年から他のタウンシップから移住してきた者が多く、今では約26,000人の居住者がいる。

2010年10月29日金曜日

音楽

最近、論文を書きながら音楽が欠かせなくなっている。

ストレスが解消されて、気分がのるような感じの。


今ベスト3なのは、

Corinne Bailey Raeの1stアルバムの「Corinne Bailey Rae」
この曲が一番すき。http://www.youtube.com/watch?v=gvH9Ccqk5qc


haruka nakamuraのアルバムの「grace」
いやされる~。http://www.youtube.com/watch?v=L6liKjfUQUY

あと映画「人のセックスを笑うな」のサントラ
松ケン好きなんだよね~。http://www.youtube.com/watch?v=0HpVF89txD4


あとは、ノラ・ジョーンズと、クラムボン、tommy guerreroもかなぁ。


そういえばずっと男性アーティストばっかだったのに、近頃女性ばっかだ。
なんでだろ。


さーて、論文、論文!

また掘り出し物のの音楽さがそ。