2011年2月3日木曜日

Nodoliのライフヒストリー


Nodoliとひ孫たち。

タウンシップは、都市空間の中でも縁辺に追いやられた地域として、都市の広大な下層地域の一隅に位置づけられてきた。
多くの出稼ぎ移民がタウンシップに集結し、人間の喜怒哀楽を演じる。
タウンシップには、多くの厳しい社会問題が折り重なる。仕事、住居、病気、HIV/AIDS、福祉、犯罪、人種差別の問題が積み重なる。
都市空間は、流浪しながら生き抜いてきた住民たちの軌跡がよく見える場所でもある。


マシプメレレの住民たちがどういった経緯で農村から抜け出し、ケープタウンという都市に出てきたのか。そしてどうしてこのマシプメレレというタウンシップに流れ着いたのか、ということを多くの人に調査でインタビューをしてきた。


最初に、南アの各都市を移動してきたNodoliのライフストーリーを紹介したい。
彼女と私が出会ったのは、私が毎日通っていたエチオピア人が経営するスパザショップ。
彼女はその時2人のひ孫を連れ大量の食材を買いに来ていた。その後私が彼女の家に食材を運ぶ手伝いをしてから、私が彼女の家へ通う日々が始まった。
彼女は会った当初から私に興味を持ち、いろいろ話を聞いてきた。私も彼女の人柄に信頼を寄せ、毎日通いいろんな話をした。いつも優しく、偏見も差別もなく接してくれるNodoli。彼女の心は大きく広い。本当に大好きな人。


彼女は1940年生まれの現在71歳。ヨハネスブルグのアレキサンダドラ・タウンシップで生まれ、両親の故郷である東ケープ州のマタティエレ(Matatiele)で育った。
学校に小学校8年間通い、その後1958年に18歳で結婚した。
夫は鉱山で働いており、子供は男女1人ずつ、2人育てた。

1973年、夫が47歳のとき(彼女は当時33歳)に心臓病で亡くなった。鉱山労働をしている中で、彼は心臓を悪くしたのである。
その後彼女は他の誰かと結婚しようとはせず、夫が亡くなった2ヶ月後にクワズルナタール州のダーバンへ働きに出る。
ダーバンでは家政婦として働いていたが、1974年にマタティエレに戻り1年間パン屋を経営していた。
76年には同じ東ケープ州のコークステイに移ったが、翌年の77年から93年までヨハネスブルグのケントンパーク(Kempton Park)で白人の家政婦やホテルの従業員として働いていた。
93年に父の兄弟の姉妹がケープタウンのマシプメレレに住んでいたため、彼女も移り住むことにした。当初はスクオッター・キャンプ(不法占拠区)に住んでいたが、1996年にはヨハネスブルグに移り住むという人から、マシプメレレの土地を当時R1500で購入した。
現在は、トタンで作った自分の家を保有し、そこに4つの掘立小屋を建てて他の人に貸出している。住人は、2つはジンバブエ人家族、もうひとつは友人のMatirdaに月R250で貸している。


現在のNodoli家族は、娘と孫4人、ひ孫2人の8人暮らしである。孫で2児の母親はあまり家に帰って来ず、面倒を主にNodoliが見ている。
孫は23歳と若い母親であり、彼女の母親ともよく口論をしている。娘や孫は時々家に帰ってくることもあるが、たいていは帰ってこず外へ出歩き酒を飲んで過ごしている。
Nodoliはいつも娘や孫、ひ孫までに日々手を焼いており、「困ったものだわ」と愚痴をこぼす。


Nodoli「ヨハネスブルグからここへ来たのは、ここに掘立小屋がたくさん建て始められたのを聞いたからよ、90年代にできたからね。子供がいたし、もっと静かで家が建てられるところへ移りたかったのよ。」

マシプメレレでは、近くのフィッシュフックやサイモンズタウンで67歳まで家政婦として働いた。彼女は家政婦として20年間、3都市間を移動し続けてきたのである。


Nodoli「ダーバンにはインド人がたくさんいたわね。そう、私もダーバンではインド人の家で働いていたわ。いい人だったわよ。
インド人の料理はおいしくてね、私も学んだわ。スパイシーな粉を入れると本当においしいのよね。ジョバーグでは、イギリス人とアフリカーナーの家で働いたわ。
ジョバーグやダーバンのときの友達とは全然会ってないわね。マタティエレの故郷の友人とも。連絡手段もないし、私も行くことはないわ。みんないい人たちだったけどね。

ケープタウンでは、フィッシュフック、コメキー、ノールトフックで67歳まで働いたわ。当時は日給R80だった。友人のMatirdaが辞めた時、私はまだ働いていたのよ。Matirdaは私より10歳も若いのに、辞めるのが早かったわね。年金がもらえ始める60歳でちょうど辞めたのよ。今の政府はいいわよ、年金を毎月くれるから。助かっているわ、働かなくて済むもの。」


彼女の移動の動機は、家計の大黒柱だった夫が亡くなったことによって、彼女が子供たちを育てていかなければならなくなったからであった。

アパルトヘイト政権のもとで、都市へと出稼ぎ労働者を送り出すように管理されたため、東ケープ州にはほとんど職がなかった。
現在でもその負の遺産は色濃く残っており、職業は都市部に集中したままである。しかし、都市へ移動してきてもなお職を見つけるのが難しいのが現状である。

彼女が移動先を選択する際に重要視したのは、移動先に親族がいるかどうかであった。移動先に親族がいることを親族から聞き、住所を教えてもらい訪ねにいく。
都会で生活していくために、必要な住居や職を確保するために、キーパーソンである自分自身の親族は貴重な存在である。彼女は移動する際は親族に依存するのみで、ダーバンやヨハネスブルクで形成したネットワークを維持することなく、流浪していくことになる。


Nodoli「人生はサークルよね、いろいろ移動するのよ。いろんな所へ行ってね…。」


人生は移動そのものであり、移動を繰り返したことによって、彼女の人生が形成された。タウンシップは出稼ぎ移民が都市で仕事を得るための巨大な吹き溜まりであり、還流する移民の「家郷」でもある。その意味でマシプメレレは、移動を辞めた彼女にとって家郷となり、終着駅となった。

0 件のコメント:

コメントを投稿